校長室の窓から

2024年8月30日 隣人を自分のように愛しなさい

8月最後の登校日。正面玄関前のベニヤマボウシが、早くも赤く色づき始めました。

8時35分。いつものようにオルガン演奏による音楽が全校に流れます。朝礼開始の合図です。1日の生活の中で唯一、校舎の中が静寂に包まれる時間。オルガンの音が止まると、今週の聖句が読みあげられます。

先週の金曜日にこの聖句を紹介してくださった3年D組の北嶋花果さんは「自分自身を大切にできないなら、他の人を大切にすることができないのでは?」と問いかけました。北嶋さんの”聖句の紹介”の一部を紹介します。

‟隣人”とは家族や友人など身近な存在の人だけではなく、困っている人や助けを求めている、すべての人のことを指しています。‟自分のように愛する”ですが、隣人を愛する前に、自分を愛することが前提にされていると思います。自分の良いところも悪いところもすべて自分であると理解し、自分で自分を認めてあげることだと考えます。しかし、決して自分を甘やかし、自己中心になってわがままに行動することではないと思います。・・・・・・普段の自分を考えてみると、失敗を恐れて行動に移せないことや、人の目を気にしてしまい行動できなくなることがよくあります。‟失敗した姿を見られたくない” ‟自分のかっこ悪い姿を見せたくない”という気持ちからくるものだと思います。こうなると、自分のことで精一杯になってしまい、周りに目を向けたり、手を差し伸べたりする余裕なんてなくなり、‟自分も愛せない、人も愛せない” 状況になってしまいます。そんな時にこの聖句を思い出したいと思います。私たちは人生の中でいろいろな場面を体験すると思います。どんな自分でも、そのままの自分を愛し、周りにいるすべての人に愛を持って関わっていきたいと思います。」

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この聖句は、イエスが話されたたとえ話の中のひとつ「善いサマリア人のたとえ」(ルカによる福音書10章25節ー37節)の中の一節です。聖霊高校在学時代に、このたとえ話が自分の進路選択に大きな影響を与えたという卒業生が、一昨日、母校を訪問してくださいました。

上智大学神学部神学科3年の渡邉りのさんです。もともと心理学に興味を持っていた渡邉さんは、イエスのこの教えに出会い、″Somethingism”(校長室の窓から 8月27日 ‟新しい言葉との出会い” 参照)を体験したようです。

本校で学ぶすべての生徒たちが、神様からまるごと愛されているありのままの自分自身を大切にし、出会うすべての人々の中に自分と同じいのちの光を感じることのできる人になることができますように願っています。

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